思い出はいつも
新しい部屋に引っ越したら押入れがないことが判明して
今までも引越しのたびに開けないまま放置していた年季の入ったダンボールを
解体してはよくわからないものと遭遇する。
その中から小さな箱が出てきた。写真立てくらいの大きさだったが
開けてみると汚いノートの切れ端、3×10cmほどに小さく切り取ってあり、
これもまた汚い鉛筆書きで、一体何が書いてあるのか頑張って読み取った
思い出した。
中学二年生の頃に、授業中、教師の目を盗んでよくやった遊び
二人一組で行い、交互に紙を回す。紙には以下の要領で自由に書く
1.いつ(When)
2.どこで(Where)
3.誰と(Who)
4.誰が(Who)
5.何をして(What)
6.どうなった(Result)
Aが1を書いたらBに渡し、Bが2を書いてまたAに渡す。Aが3を書いてBに渡し〜6まで繰り返して終わり。
紙を回す際に自分の回答を折り畳み、見られないようにする。
これが肝で、要するに好き勝手に書くリレー小説のようなもので、結果は開いて読まないとわからない玉手箱だ
中学生の手垢にまみれた汚い紙だったが
読んでみるとくだらな過ぎて笑ってしまった
[yesterday.]
[Dr.マンラーのけんきゅう所で]
[勇気のある武者と書いて調子にのってクソまずいまぜごはんをつくった大ボラふき野郎と]
[ピッグライトイヤーが]
[またでしゃばって]
[射殺された]
Whoが具体的過ぎて面白い
何枚か読んでみたが
だいたいResultでは
[射殺された]
[ほふくぜんしんしてしゃさつされた]
[ふたりとも天にめされた]
等といったアルマゲドンな展開が多く、途中で飽きてしまった
箱の中には他にも『なぜ保管していたのか?』という
でっかいクエスチョンマークが頭に浮かぶような落書きが
何枚も入っていた
通夜までの間
夢日記をつけている人が羨ましくて、自分も真似してみたいんだけど、俺にはできないといつも思うのは、だいたい覚えている夢は叙情的であり、しまっておきたい大切なものであり、俺はできるだけそのセンチメンタルな甘さに浸っていたいわけで、忘れる前にせっせか書き記したりするとなると、その瞬間に現実が夢に覆い被さってしまうのがとてもいやなのだ
今朝は母の夢を見た、昨日もそう
母は昨年の末に体調を著しく崩し、今年の始めに入院、闘病生活は十ヶ月、先日息を引き取ったばかり、まだ俺は夢のなかでふわふわしているような地に足がつかない感覚を味わいながら、いろいろなことをかんがえている
思い出とか部屋とか、引っ越しとか遺品とか
ほんとうに仕事がはやいもので、亡くなったその日に葬儀屋と打ち合わせが始まった、淡々とした口調で葬儀の取り決めが行われていった、供花とか棺の色とかね
故人の思い出コーナーを入り口に設置しますので写真等用意してくださいとのことで、言われるがままにカメラのデータ等を現像し、日付やコメントを入れられるように色紙に写真を貼った、しかもセロハンテープを鋏で切ってから丸くして
小学校の図工のような時間は俺を奇妙なきもちにさせた、きっと家族も
俺は久々に友人に電話をかけてみたりした、長いこと喋ってなかった
十ヶ月間、俺は母を中心とした生活していたので、半身を失ったような錯覚に陥っている、まさしく、俺はまるで自由を得たかのような後ろめたさもすでにもっている
しかしかなしみはふとしたときに襲ってくる、同時に愛の深さを思い出す、どちらが先でも同じことなのだ、今後ともよろしくするだろう
さいわい考える時間はたくさん頂戴したので、北斗の拳とかデュアルディスプレイ環境とか8インチサイズのWindows8.1タブレットに主に搭載されるBayTrailのAtomCPUのこととかもついでに考えながら降ってきた雨をやり過ごしている